
1963年千葉県生まれ。 1987年株式会社マルコー(現ダーウィン)入社、1988年マイルーム(現マイム)転籍、不動産賃貸店舗の多店舗化を推進、その後ビジョン推進室長とし てCI及び新規事業担当となる。1992年同社退社後、複数の経営コンサルティング会社勤務を経て株式会社日本エル・シー・エーにコンサルタントとして勤務。1995年経営コンサルティング会社の株式会社モア・コンセプト・ファームを設立し、代表取締役常務に就任。1999年日本社宅サービス株式会社の取 締役経営統括室長に就任、2002年同社代表取締役社長就任、現在に至る。2006年マンション管理会社のダイワード株式会社代表取締役CEO就任、現在に至る。
『社員に笑顔がたくさんあることが私の元気の源です。笑顔はお互いに寄せ合 う信頼の厚さだと思います』
本日はよろしくお願いします。さて、まずは日本社宅サービス株式会社の事業内容についてお教えください。
一言で言いますと、社宅 管理運営のアウトソーシングを行う会社です。 借上げ社宅の管理代行業務や、社有社宅の管理・運営代行業務、全国の転勤者への賃貸不動産物件(借上げ社宅)の斡旋とそれに関連する企業側手続きのほとんど全てを代行しています。単に業務を受託するというよりは企業にとって価値ある社宅制度や資産運用に関するソリューションを提供する会社です。私どもは社 宅運営に関わるアウトソーシングのパイオニアとして「しゃたくさん」という愛称で親しんでいただいています。ありがとうございます。本日は、そうした先駆的に新たな価値を創造されている御社の元気の素についてもお伺いできればと思います。 さて、まずは笹さんのこれまでのキャリアについてお伺いしたいと思います。
元々は不動産会社で新規事業開発担当として、私のビジネス人生は始まりました。その後、大手コンサルティング会社を経て、仲間とともにフランチャイズ支援のコンサルティング会社を立ち上げました。そのコンサルティング会社が今の会社の前身だったのですか?
いいえ、違います。今の会社は、元々私がいた不動産会社の新規事業として、それこそプロジェクトXのような形で生まれた事業だったのです。その不動産会社が経営破たんし、会社更正法下で、子会社上場といった夢を描いたのですが、結果的には認められず、かつての仲間7名が立ち上げた会社です。立ち上げに際しては、私も参画して事業計画を作り、一口300万円の加盟金で17社の 地域の不動産会社をフランチャイズとして、出資と共にフランチャイザーとして集めて始めた事業です。地域の不動産会社の方々に転勤時の社宅需要のマッチングをしてもらうという仕組みでした。笹さんのフランチャイズ支援のノウハウも活きたのですね。そのときの笹さんの立場はどのようなものだったのでしょうか?
かつての仲間が頑張っていることに対して、純粋な気持ちで応援しようと、半ばボランティア的にお手伝いをしていました。出資はしたものの、全くの社外のサポーターでした。仲間からは、コンサルティングをしているのだから、事 業計画作りはお手のものだろうという感じで、新会社の戦略面での支援を主に行いましたね。なるほど。その立場に変化が現れたのはどのような事情からでしょうか。
当初、加盟者も集まり、順調な立ち上がりのはずでした。ところが、なかなか 実際の売上が上がらず、加盟者の中からは「どうなっているんだ?」との声が 噴出し始めました。 今から思えば、情報マッチングを主体にした不動産会社の社員の発想と、大手企業の業務運営の仕組みの中でサービスをし続けるアウトソーシングのビジネスモ デルとの間に乖離と甘えがあったのかも知れません。ビジネスとしては、仕組みはできましたが、実際の社宅の需給がビジネスに繋がるためには時間が必要だったのです。 そして、出資者を募ってビジネスを立ち上げる、バラ色展開の事業立ち上げがうまく行かず、自分たちでも借り入れを行って、事業を拡大しようと方針を転換したのです。銀行に対して事業計画を策定し、説明していくためには、計画を作っていた私が参画しないわけにはいかになくなり、設立から8ヶ月後の1999年の6月に社外取締役に就任しました。そのときはどんな気持ちで経営参画されたのでしょうか?
まさに「助けたい」の一言です。かつて一緒に仕事していた仲間たちが出資者を前に責め立てられ、何とかしなければ・・・という気持ちです。ただ、当時はこれから2億円の赤字が出る見通しであり、飛び込んで行ったというのが素直な心境ですね。コンサルティング会社の協同経営者と実際のビジネスの役員との二束のわらじはいろいろと大変だったのではないですか?
正直、消えて無くなりたいと考えるほど追い詰められたことがありましたね(笑)。どのような時だったのでしょうか?
最初は、不動産ビジネスからアウトソーシングビジネスへの脱皮を図ることを 対外的にもアピールする必要があり、成功事例の無いニュービジネスに対して私自身がさらにコミットする必要が生じ、コンサルティング会社を辞めて、専務取 締役に就任したころです。年商がやっと1億円の頃に累損が2億円、銀行借入は3億円まで膨れ上がるタイミングです。役割上、専務といえども個人の連帯保証 が必要になりました。当時としては、借金の重みもありますが、自身が創業したわけでもないのに、義理と人情で人生を変えてしまって、自分の人生はこの道で 本当にいいんだろうか?と、思い悩んだものです。まさに正念場ですね。その後、どのように乗り切られたのでしょうか。
それが不思議なんですが、あるとき、突然変わったのです。どのように変わったのですか?
決して、最初から自分が選んだ道ではないけれど、色んな苦難が自分に降りかかったときに、ふと、自分が生かされているということに気づいたのです。気づかれたきっかけは何ですか?
経営者である自分が思い悩んでいたら、社員がもっと可哀そうだということに気づき、自分が夢とビジョンを語り、自ら率先して頑張ることで状況が変わるのであればと・・・それこそ一心不乱、無我夢中という状態になりました。 すると、社員の人生やキャリアを背負っていくという気持ちが次第に強くなり、自分のための利己的な人生観から、色んなものを背負いながら周囲が共に生きるといった利他の人生観に大きく変わっていました。ある時から自分は生かされているんだと思うようになりました。なるほど。深いですね。まさに経営者誕生ですね。ありがとうございます。ところで、株式公開まで会社が成長される過程では当初の立ち上げメンバーも変遷があったのでしょうか?
当初の立ち上げメンバー7名のうち、約半数が、価値観が合わずに辞めていきましたね。不動産業からアウトソーシング事業への変化が合わなかったのだと思います。残念ですが、会社が脱皮していくためには仕方がないですね。ところで、日頃、笹さんは社員に対して、大切にすべきこととして、何を伝 えていますか?
前例のないビジネスで、継続して新たな価値をつくり続けるためには、「日々成長すること」それこそ創造的破壊の世界です。そして「成長とは変化すること」であるから日々の営みを進化させることを大切にしようと言っています。 また、私は、自分に代わって遂行できる人を作ることを意識しています。いわゆる、「熱意×考え方×能力」で仕事の成果が決まるのであれば、私は「熱意」と「考え方」を重視し、それをまず伝えていこうとしています。さて、笹さんにとっての元気の定義は何でしょうか?
決して守りに入らずに、旧習を壊し、止まらずに前に進むことです。そんな笹さんの元気の源は何でしょうか?
まず、かつての経営危機の恐怖感と危機感が原動力となっていることは確かです。そして社員の笑顔です。社員に笑顔がたくさんあることが私の元気の源です。この笑顔はお互いに寄せ合う信頼の厚さだと思います。結局は認めること、認められること、この積み重ねだと思います。では、元気を貯めるためには何をされていますか?
オン・オフの切替えを意識して、例えば日常の会議なんかでも、それが自分が気を張って進めなければならない、いわゆるオンの状態が必要な場面であるか、あるいは他のメンバーが上手に進めており、自分がオフで臨んでもよい状態かを意識します。そしてオフの状態のときは、メンバーの成長に喜びを持って接している、そして次のことを考えている、そんな状態です。 そんなときはまさに働きながら充電できている感じです。では、元気でイメージする色は何でしょうか?
オレンジです。まさに元気色だと思います。元気になる言葉は何でしょうか?
京セラの稲盛さんの言葉で、「動機善なかりしか、私心なかりしか」と「公明正大な利益の追求」という二つの言葉には、とても勇気づけられ、迷った時に幾度となく反芻し、自信と共に元気を回復してきた言葉です。 また元気になる儀式があります。日の出を見ることと、真冬でも冷水で顔を洗い、顔面をピシャピシャと叩きながら鏡の向こうの自分に笑いかけるという習慣です。清々しくなり、シャキっとなるじゃないですか。 一点の曇りもなく、正々堂々と笑顔で立ち向かっていく事が、健康な姿ですよね。では最後に読者の皆さんにメッセージと会社の今後の展望をお願いします。
元気になるヒントはたくさんあると思います。そして「みんなで元気になろうよ」です。 会社の展望としては、私や社員が好きで続けられる会社、好きになれる会社にしたいですね。本日は長時間にわたりありがとうございました。終始笑顔の笹さんの人柄に触れ、社員の笑顔が元気の源という言葉に納得します。私まで元気をいただきました。前例のないビジネスを邁進される笹さんの今後のご活躍をお祈りします。


