元気人インタビュー 株式会社トランジション 代表取締役 中田幸子さん

株式会社トランジション 代表取締役 中田幸子さん

プロフィール
大学在学中、心理学を専攻する一方、各種デザインコンペ受賞を機に工業デザイナーとして活躍。その後、松下電器グループの流通戦略プロジェクトに て、実践マーケティングによる商品流通戦略を習得する。 人材戦略のプランニングとディレクションにより、1975年??1982年の約7年間で株式会社ワールドを売上高70億円から1000億円企業へと急 成長に導く。 1982年に株式会社アダマント設立。企業戦略・マーケティングコンサルタントとして活躍。 2000年、株式会社トランジション代表取締役社長に就任。講演活動、執筆活動、テレビ出演多数。

中田さんの起業家としてのキャリアの源は何でしょうか?

  子供の頃から事業家であった父にプロフェッショナルになりなさいと言われて育ちました。また、「人にはミッションがある」ということが父の人に対する根 本的な考え方でしたね。私も大学生の頃から、自己表現をするということを通じてミッションを探し出していたのかも知れません。 大学生の頃、工業デザイン系の専門学校にダブルスクールで通っていたとき、デザインコンペで賞を狙うには、どんなメンバーでどんなテーマで制作をすれ ば、スポンサー企業から評価を受けれるか、について徹底的に分析して、賞を軒並み勝ち取っていましたね。

まさに今の仕事につながるプロデューサーとしての真骨頂ですね。そのときのプロデュースを成功させるための秘訣は何でしたか?

  これも父から教わったことですが、差別なく、できるだけ一芸に秀でたメンバーを集め、各々の才能を活かすこと、そして「泥棒の分け前」式の成果配分です(笑)。

泥棒の分け前とは(笑)?

  泥棒は見張りをした人も盗んだ人もどれも重要な役割だから、均等に分け前を配分するでしょ。それと一緒ですよ。どんな役割でもなくてはならないメンバー なんだから分け前は均等にする。すると、私のプロデュースする企画は、成功モデルとして、皆が参加しました。そうすると優秀なメンバーをさらに集められ て、さらにスーパーチームができたんですね。

なるほど、まさに組織づくりの要諦を学生の頃から把握されていたようですね(笑)。学校を卒業された後の中田さんのミッションはいかに変化されたのでしょうか?

  学生時代から仕事を始めたのは「自己実現したい」という欲求が強い為で、某自動車メーカーの車のデザイン設計や、某家電メーカーのデザインセンターで販売 店戦略の立案を行ったり、流通マーケティングに関わるプロジェクトチームのメンバーとして活動していました。すべて実践で学べたことが、その後の自身の強みになっていったと思いますね。

その後、某アパレルメーカーの急成長に関与されたんですよね。

  ひょんなことから某アパレルメーカーの社長から乞われて、25歳では じめてOLを体験しました(笑)。アパレルの松下幸之助になりたいという言葉に意気に感じたのかも知れません。当時売上規模が70億円だったのですが、 10年で1000億円にするのを手伝ってくれ、というものでした。じゃぁ、ということで1000億円の事業計画つくりに参画したのです(笑)。  そこで、某家電メーカーから学んだ、販売店戦略をアパレルでも応用してやろうということで、それまで、プロジェクトベースで動いていた外部のパートナー の知恵も借りながら、1000億円の事業計画を社長と一緒に作って実行して行ったのです。

今で言えば、異業種のベンチマーキングによってブレークスルーをされたわけですが、どんな点で資源の少ない中堅企業がブレークスルーできたのでしょうか?

  当時は年に8回の展示会方式で小売店さんを集めて、販売するというようなことをしていました。ブランド力もないアパレルメーカーにとって、小売店さんからみると、とるに足らないわけで、真剣に売りませんよね。

で、どうしたのですか?

  某家電メーカーの販売店戦略と同様にメーカー自らのブランドショップの展開を考えました。ターゲット別に最初 はミセス、OL、若い女性、さらに、メンズ、子供とターゲット別のブランディングマップに基づいてショップ展開をしました。同時に、家電メーカーと同じよ うに、各々のブランド別の原価コントロールを徹底して行い、自動車メーカーと同じように定番商品作りを行い、共通商品化によって効率のいいブランド展開を行いました。

新たな考えで出店していくことは大変だったのではないですか?

  そうです。デパートを中心に自社ブランドの店を出店していきましたが、知名度もないアパレルメーカーですから、最初からいいスペースは与えてくれません。最初はトイレの横などの小さな1コーナーをもらって、夜な夜な可動式のパーテーションを動かして地道に拡張していきましたよ(笑)。また、売れ出すと、スペース拡張の話が来ます。待ってましたとばかりに、自身の工業デザインの知識を活かして、部材を共有化したユニット式のもので、20坪くらいのスペースだと話しがあってから3日で出店していました。

さて、今のお仕事の人材支援に至るきっかけは、どんな経緯でしょうか?

  品物が売れ、物が流れ出すと、今度は人が必要になります。名もないアパレル会社では、いい人材が集まりません。当時、人事担当は銀行から出向してきていた方でしたが、あまりの人材需給の激変について行けず、銀行に戻ってしまったのです(笑)。その後、社長から、じゃあ、人材も見ろということで、私が人材開発まで行うことになってしまったのです。

それは大変ですね。経験のない中、どのように乗り切ったのですか?

  まず、イメージを変えなきゃだめだ、と直感的に思ったのです。それで、知り合いの大学の先生に、販売員を募集するに当って、何かいい名前はないかと相談したのです。すると、「ファッションアドバイザー」にしなさい、と 言われました。「ファッション」とは「生活文化」で、生活文化をアドバイスできるような人材が必要だという意味だったんですね。早速、この言葉で募集をかけたら、お嬢様学校や、有名大生がこぞって応募に来たんです。

なるほど。数は集まったんですね(笑)。

  そうなんです。ただ、数だけ集めても駄目で、売れる人と売れない人に違いがあるのではと、 これも漠然と感じていました。そこで、現在の相談役でもある臨床心理学博士の井上先生に尋ねてみると、まさに、「職種適性」があると言うのです。そうか、 ということで売れている社員の適性を照合しながら、採用しますと、定着率が飛躍的に向上したんですね。

そのことが、現在の人材資質コンサルティングの原点だったんですね。さて、その後、急成長させたアパレル会社を退職されたわけですが、その理由は何でしょうか?

  結局、6年で1000億円までの企業になりました。私の最後の役職は社長室長です。人材、マーケティングなどほとんどの主要ポストの兼務でしたけどね (笑)。1つの会社の急成長をお手伝いした経験から思ったことは、同じように商売のセンスはあるけど、マネジメントができない中堅、中小の経営者はたくさ んいるだろうな、と思ったんです。いい会社にすること、儲かる会社にすることが私のミッションだと考えるようになったんですね。

その後、どうされたのですか?

  その後、アパレル会社を辞めまして、マーケティングをベースとしたコンサルティング会社を立ち上げました。そこで、自動車などの新製品開発のプロジェクトに参画しながら、事業を行いました。 その後、プロジェクトベースで仕事をしながら、ひょんなことから現在の会社の前身の会社に支援者の立場で関与し、気がついたら自分が経営者になっていました。

まさに波乱万丈なわくわくするキャリアですね。さて、お話の中で、ピンチになると中田さんには知恵者がいて、的を得たアドバイスをもらわれていますね。そういう方々との長いお付き合いを継続されるコツはあるのでしょうか?

  まず、魂のきれいな人、ピュアな人と付き合うということです。長く付き合うポイントは、能力のあるなしではなく、お互いに人格レベルで認め合うことだと思います。また、風評で人を評価するのは駄目ですね。必ず自身の目で見て判断します。

なるほど。ところで、中田さんのこれからのミッションは何ですか?

  コンサルではなく、知財をコンテンツにして販売します。具体的には企業向けに、人材にフォーカスした診断開発事業をしていきたいですね。最終的には私どもが持っている資質面でのソリューションサービスによって、子供の教育を支援するようなことをしていきたいですね。

それはなぜですか?

  成功する人には、ハングリーさで成功する人と、ミッションで成功する人の2種類がいますね。ハングリーさで成功すると、不思議とその後は守ることに執着します。そして周りに対する不信感を募らせ、精神の安定を無くします。お金があればあるほど精神がプアーになるよう です。一方、ミッションで成功する人はそんなことにはなりません。成功してもより大きなミッションを目指して前向きに生きていけるようです。そして、このミッションに気づくということは、実は子供の頃からの教育なんです。言い換えれば「愛」です。私はこのことを皆に伝えることが私のミッションだと思っています。

子供のころの教育についてもう少し詳しく教えてください。

  子供が9歳??14歳の頃に自我に目覚めなければ、その後も内面が子供のままのインナーチャイルドになってしまいます。こういう人は受験や就職で成功しても、責任をかけると逃げ出してしまう人たちです。資質診断のビジネスをしている私たちだから分かることですが、このタイプの人が今は大変増えています。このままでは日本の将来も危うしですよ。自我に目覚めることができるためには、子供の頃に親がきちんと躾をするということと、無条件に愛するということが必要なんです。

では、仮に不幸にも自我に目覚めずに成長してしまった人にはどのようにすればいいのでしょうか?

  まずは、本人に意識を持たせるために、声をかけ、挨拶をします。そして、当たり前のことをしなければいけないんだということに気づいてもらいます。そして、本人に成長を確認し、振り返ってもらい自己成長を促します。しつこいくらいの声かけですね。

自己認知ができない人にミッションを持てと言っても出発点がないのだから、意味がないですね。

  そうです。自己認知がない人はハングリーだけの人間になるか、あるいは享楽に生きるかのいずれかですね。

いろいろと深いお話をありがとうございます。では、そろそろ中田さんの元気についてお教えください。中田さんにとっての元気の素は何ですか?

  知的好奇心ですね。子供の頃から私は親に「なぜ」と聞いて答えてもらわなかったことはなかったですね。私の子供にもそうしました。だから私の娘は理屈っぽいですよ(笑)。また、興味が出ると単に知的好奇心だけでなく、ソリューションをかけて応えたくなりますね(笑)。

なぜ、なぜを問うということは、目的志向の考え方ですよね。

  そうです。完璧な目的志向の人間です。部下に指示をしても、こちらが目的を聞いてほしいのに、「ハイ分かりました」と考えずに言う通りにしようとすると、「待て・・・そうちゃうやろ??」と言いたくなりますね(笑)。

その好奇心はどこから来るのでしょうか?

  そうですね??「人生を愉しむ」ということでしょうか。私はビジネスでも子育てでも何でも愉しんできました。何事にも興味を持つということは人生を真に豊かに愉しむということでしょう。

元気を維持するために何かされていますか?

  昔、松下幸之助先生にプロジェクト会議の席で質問する機会があって「私は毎日何をしていたらいいですか」って聞いたら、「考えなさい」と一言。考えるということが私にとっての元気を貯める行為だと思います。 考える時間がないという人は嘘です。物理的な時間はあります。心に余裕がなくなったら、考える余裕がなくなります。

元気でイメージする色は何でしょうか?

  ファーストフードの色!です。ビビッドな色。鮮やかな色で、赤、オレンジ、イエローですね。

中田さんにとって元気になる言葉は何ですか?

  子供の頃はかわいいと言われることはあまり嬉しくはなかったですね。利発な子供と言われるのが好きでした。今は、「素敵ですね」と言われると、相手に対してホスピタリティを提供できたかな、と思って自分を見直したくなります。元気になりますね。

最後に読者の皆さんに一言メッセージをお願いします。

  「Living Together」です。生きとし生きるものは皆共生です。自己中心ではなく、一緒に行こうよ、ですね。 また、私自身が気をつけていることは、特に若い人には、自分がかつて今の私の年齢のいろんな素敵な方々から指導してもらったように、真正面からモノを言いたいですね。何事にも見過ごさず、言うべきことは言うようにと心がけています。これが、今まで、私がよくしていただいた方々への恩返しにもなると考えて います。

いろいろとお話をいただきありがとうございました。私自身にとってもたくさんの気づきを得ることができました。